世の中の半分はヌルさでできてます?

出版社で企画会議なんかに出ていると、相手を説得する、
という目的のための、あの手この手の工夫の数々を見ることになる。


企画書の作り方ももちろん、資料の出す順番や言葉の選び方、
説明の手順や、説明のアプローチなど、相手の理解を得、「Yes」を
引き出すために、編集者はありとあらゆる手練手管を使うといっても過言ではない。


多分、おそらく、世の中の大半の説得や議論とはそういう形で進んでいくものだと
思っていたのだが、その認識が揺らぐことをいくつか体験した。


1つは、週末にジムに行って、トレーニングフロアのテレビを観ていたときのこと。


放送局ごとに1台ずつのテレビがトレーニングフロアの前方に据え付けられていて、
その中から見たい局を視聴できるようになっている。
そのときは「笑っていいとも増刊号」とナニヤラまじめな討論番組を放映していた。


討論番組のテーマは「年金問題」だったが、そこで使われていた
基本的な論議の戦術は、「相手よりでかい声で相手の発言に割り込む」だった。


ダレが何言ってるかわからん。いいおっさんが顔を真っ赤にして身振り手振りで
大声張り上げるのは見苦しくてイライラする。


年金問題には興味はあったが、結局、タモリアワーのSMAPの中居君が鼻歌で歌う
曲名を当てるというゲームを見ながらランニング。これはこれで笑えたケド。


もうひとつは、知人と話をしていて、彼がやっているあることについての説明で、
「(自分がやっている物事は)絶対正しい」を繰り返すだけという“説明”方法。


「正しい」ことの根拠については、「やってみればわかる」というだけ。
彼は年下だけど、もちろん成人。
2時間あまり聞いてた自分も自分だが、2時間もしゃべり続けた知人に拍手。


そういや、昔、別のヤツが、結構重大なことを「オレは決心した」とか語って、
ものの数時間とたたず「やっぱりやめた(決心を覆した)」と言ったことがあって
心底あきれた記憶がある。


「絶対」とか「決心」とか、強い言葉をそれなりに重要な場面でホイホイ使って
しまうヤツって胡散臭いし、まったく説得力がない。


企画会議で「絶対売れます」を繰り返して、根拠を求められたときに
「売ればわかります」って言うのと同じだしな、、、、


信じられん話だが、こういうのがまかり通っている世界もあるらしい。
なんでも理詰めでやるのは、それはそれで息苦しいけど、
理屈ぬきで力技というのは、それはそれで暑苦しい。


なんでもかんでもを知識で武装するのはしんどいんだけど、受け手の気持ちや
モチベーションを考えれないそういうヌルさって、甘いというか、自分勝手で
大人としては恥ずかしい部類にはいるんじゃないかと思うんだが、やっぱり
世の中の半分はそういうヌルさでできてるものなのかな?