拡大する“尻拭い”

帰りの電車でドアの近くに立ったら、足元にコーヒーの空き缶が落ちてた。
立てていればそれほど気にならなかったのだろうけど、何かの拍子に倒れたらしく、電車が揺れるたびに転がってつま先にカタカタとぶつかってくる。


うっかり足を上げて踏んづけたら、お年寄りや酔っ払いなどは転倒する危険もあると思い、不承不承ながら電車を降りる際に拾って、改札を出て脇の自動販売機のゴミ箱に捨てたのだが、あんまりいいとは言えない気分で缶を持ちながら、なんでわしが拾わないといかんのかと考えた。


見も知らない人の尻拭いを、なんでわしがしなければならないのか。


それで思ったのだが、尻拭いの責任って拡大していくんじゃないかと。


たとえば、わしが何かを家の前や近くに放置したり、そこにあるものを壊したり汚したりしたとする。
これを原状復帰するのはわしの責任だ。

でも、わしがこの責任を放棄したら、たぶん、近隣の人はわしを含むわしの家族(今は同居じゃないが)の責任と見るだろう。

つまり、わしが放棄した責任は家族の責任となる。

もし家族がその責任を放棄したらどうなるだろう?

周囲地域の人々は、この近隣の人の責任と見るだろう。
同じように、近隣の人が責任を放棄したらそれは地域の責任に。国の責任に。そして世代の責任となり、後世の人々は今生きている時代の人々の責任と見るだろう。


そう考えれば、その拡大する“尻拭い”の連鎖を、たまたま居合わせたわしが断ち切ったのかもしれない。


まぁね、たかが空き缶1つなんだけど、なんだかそんなことを考えて、納得はしなかったけど仕方ないかなと思ってゴミ箱に缶を捨ててきたわけですよ。