恵比寿
天気はやはり不安定気味。気温も低くて少し肌寒い風が吹きます。
ただ、風がないと蒸し暑さすら感じるので順当に季節は巡っているようです。
広尾の山種美術館に行ってきました。
草花の日本画をテーマにした「百花繚乱」展。
特に印象に残ったのは
- 橋本明治 『朝陽桜』
- 作者不詳 『竹垣紅白梅椿図』
- 野口小蘋 『芙蓉夏鴨』
- 牧進 『明り障子』
- 福田平八郎 『牡丹』
など。
特に、福田平八郎 の『牡丹』は、見ている者の吐息で花びらが揺れるのではないかと思えるほど繊細に描かれた牡丹の大輪が、薄闇からこちら側の明かりに少しだけ照らされて浮かび上がっているようで圧巻でした。
こうして見ていて気づいたのですが、額の絵は少々窮屈に感じる気がしました。
額に入ったものでも良いと思えるものはあるのですが、掛け軸や屏風図のほうがすんなりと入り込めるように感じます。
特に屏風は見る角度によって構図が変わり、左から見て右から見て「時間軸」と「ストーリー」が楽しめます。
思うに、わしが絵を見るときは、それがどこに置かれるかということを想定しているようにも思います。
掛け軸は床の間に、屏風は大きな和室に。
そしてそこでどんな生活や動きをし、何をしながらその絵を見るのかということをあわせて思いながら絵を見ている部分があります。
そう考えると、屏風の前は行ったりきたり、屏風に近づいたり遠ざかったりしながら眺めるでしょうし、床の間の絵は座してふと見上げて気を落ち着かせてから眺めるでしょう。
そのときに、どんなふうにその絵を見るか。おそらく何度も何年もその所作を繰り替えしながら。
そう思って絵を見たときに、その絵を見て過ごす自分や誰かの目線で、その絵を自分の体験や生活に重ねて見るているのかもしれません。
額の絵はどこにでも飾れるでしょうが、逆にどこにあってもそこに自分の生活を重ねにくいように思います。
額という世界の中に完成されている絵はそれだけで単独で、生活の中に入ることを額が拒否しているようにも思えるのかもしれません。
まぁ、絵画のことは素人なのでなんとなく漠然とですが、今日見た展示で掛け軸や屏風と並べて見た額の絵が、なにか窮屈に思えたのは事実でした。
しかし、その中でも牧進の『明り障子』は、横長の額の左右に開いた障子を描き、開け放った障子の向こうに竹やぶと水仙とスズメの群れが見えるという構図で、左右の障子で区切られた視界なのに窮屈さを感じませんでした。
これはもうわしが障子を開けて外を眺めるという「生活」に入り込んで絵を見ているからではないかと思った次第。
そういう意味でもなかなかに興味深い展示だったと思います。
その後、ミュージアムショップでいくつかグッズを購入し、恵比寿のアトレで食事をしてから帰宅。