稲城

Dowa2012-02-24

春のような暖かい日でした。
ぽかぽか陽気で手袋をささずに歩けいても爽快。

実習は最終日。
実に勉強になり、楽しかったけどさすがに疲れましたよ。
とはいえ、五日目は身体も慣れてきたのか終わったあとは昨日とおとといほどは疲れていませんでした。


今回の実習は、かなり認知症や拘縮*1が進んだ方が多く居らっしゃる施設でした。学校で習ってはいたもののこの拘縮が介護技術を実践する上で非常に広範囲に影響していて驚きました。

ほとんど手足が動かせないほどの拘縮にくわえて認知症が進み、意思疎通がほぼできない方々を介護するのは学校での同級生を相手にした訓練とはまったく勝手の違うものでとまどいました。

認知症の方との会話はとりとめもなく、どこからどこまでが本当なのかはわかりませんが、会話自体が成り立っているところの妙が不思議な感じです。
そして微妙な駆け引きがあったりもして、どこか相手の手札を読むゲームのような感覚。



利用者:(立ち上がって歩こうとする)
おれ:「あれ?Tさん、どこにいかれます?」
利用者:「家にね。帰ります」
おれ:「今からですか?Tさんお家はどちらですか?」(「帰る」というところから意識をそらさないと!)
利用者:「xxx町です。学校が近くにあるんですよ」
おれ:「(お!「帰る」以外の「学校」ってキーワードでたー!)学校ですか。小学校ですか?」
利用者:「ええ、小学校です」
おれ:「へぇ〜。あ、どうぞ椅子におかけくださいね(と、再び座っていただこうとする)。じゃあ、おうちの周りには子供がたくさんいらしたんですね」
利用者:「はい*@%&$(不明な返事)」
おれ:「あー、えーっと、いま時分だと家に帰る子供がたくさ・・・(あ。「帰る」って言っちゃった)」


はい、おれの負け。 みたいな。



結局、この方には「もうTさんの分の晩御飯の準備をしてしまったので、帰るのはご飯を食べてからにしていただけますか?残っちゃうともったいないので」と言って座っていただき、第2ラウンドでポイントゲットしましたが。


「自我」とかの定義がどうあれ、認知症にしても何にしても明確な意思疎通ができないと(理性的な?)「自我」を持っていることを観察することは少なくとも難しいわけです。
じゃあそれが退行した、ネガティブな状態なのかというと、まぁ、物理的には決してポジティブではないとは思うものの、ふと、「色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是」という言葉に行き当たり、なんかこれって別に普通のありようなんじゃないかとか、ある意味、悟りに近いんじゃないかとか思ったり思わなかったり。

そうやってみると、ほとんど一日中目を閉じて手足も拘縮でほとんど固まったまま、食事中も眠っていらっしゃるように見える全介助が必要な利用者さんは、仏様のようにも見えたり見えなかったり。


あと、職員に手を添えてもらってですがおむつ交換もさせてもらいました。
においに敏感なほうだと自認している身として、排泄介助がどこまで難があるか心配していましたがどうということはありませんでした。

まったく感じなくなるところまでは慣れないでしょうけど、所詮は自身でも毎日出すものです。一日中垂れ流しになってるわけでもなし、なんのことはありませんでした。

これに比べれば、オフィスで隣の人がタバコの臭いを始終させて、1〜2時間おきにその臭いを更新してくるほうがよっぽど臭くて不快です。

それと、職員や同級生でも喫煙者はいますが、1〜2時間おきに吸えるわけではなく、また動き回る職場ということもあるせいか休憩あけなどに近くにいると少し臭いがするくらいでほとんど気になりません。実習を含め、学校に行くようになってから、そういう点では喫煙者に対する自身の見方も変わってきたように思います。

まぁ、歩きタバコに大しては相変わらずですが。


ただ1つ。グラビアなどでぴちぴちむちむちの美女・美少女の絵や写真を見ても、「こんなスラリと伸びた手足やぷりぷりの肌や体の各パーツも、あとン十年もすればああいう(実習で見た利用者さんの手足や体を思い出し)ふうになるんだよねー」とか考えてしまうようになったのはなんともですな。

*1:筋肉が固まって関節が伸びない/まがらない状態