青葉台
昼間はもう初夏の陽気です。
先日、わしらが花見をしている隣で若い女の子の一団が花見をしていたのですが、どういう流れか途中から「だるまさんがころんだ」をやり始めました。
「だーるまさんが、こーろんだ!○○ちゃん動いた!」
「うごいてなーい!」
「だーめ!」
とかキャッキャしててかわいらしいことこのうえないのですが、オニのところまで到達したあと、つかまっている人(子)を解放してからわーっとオニから遠ざかって逃げたところで、ハテ?このあとどういうルールだっけ?と疑問が。
見ていると、オニは10数えて「ストップ!」の合図を出し、それで子は止まります。
ここまではなんとなく覚えているのですが、見ていると、どうやらオニに近い人から「大またで6歩」とか歩数を指定し、オニはそれにしたがって動き、誰かを捕まえる。というようなルールのようでした。
「あれは、絶対到達できない歩数。たとえば、小またで1歩、とか言わないのかね?」と一緒に飲んでたCozmi氏とS氏で話してたのですが、そこに子供の*1社会性が介入するんじゃないかという話題になりました。
ルール上は可能だが、そうしてしまうと「遊び」という目的そのものに到達できないということです。
勝ちにいくのは良いとして、ルール通りだからといって「小またで1歩」とすると誰も楽しくない、だからギリギリ到達できるかできないかの歩数でキャッキャと遊ぶのが醍醐味だ、という認識を“共有”することがこの遊びの社会性なのでしょう*2。
つまり、あれこれとルールがあるのは、それを守ること自体が「ルール」ではなく、そのバックボーンにある本当の目的を意識し、それを共有するための「ツール」であると言えるのではないかと。
「ルール」は制限のための「枠組み」と思いがちですが、実はより自由に振舞うためのものかもしれません。いわゆる子供の遊びにはそういうものが散見されるように思います。
その後、彼女たちは「はないちもんめ」を遊び始めましたが、これも欲しい相手を指定するのに一度も指定されない人がでたら?
逆に均等に指定して面白いか?
という社会性やバランス感覚が必要になりそうな奥深いゲームのような気がします。
ちなみに「もんめ」は重さの単位で、約3.75gだそうです。5円玉が1匁だとか。国際的には真珠を数える単位として使われるそうです。
こうした子供の遊びで、いろんなバランス感覚や社会性が育まれるのではないか。
近年の教育にはそういう視点が欠けているのではないかと考えさせられるひとときでした。
まぁ、ほんとは「はないちもんめ」で「ドワさんが欲しい(はあと」とか言われたいなーとか思ったり、ニーソの女の子が足上げるのをニヤニヤしながら見てたんですけどね。